このブログはゲームとことば Advent Calendar 2022の17日目の記事です。
さて今回はわたしとゲームについて。ゲームについては自分がstand.fmでいつもときどき話していますが、もうちょっと詳しく書いてみます。
わたしとゲーム
このアドベントカレンダーからこれを見ている方には驚かれるようなことなのかもしれませんが、うちの母方は基本的にゲーム好きの一家で、母はかなりのゲーム好き、祖母も晩年までドクターマリオやっておりました。
これを書いている今も、母はHARVESTELLAとあつまれどうぶつの森の世界を行ったり来たりしております。
そしてわたしも、その日その日の遊べる時間に応じていろんなゲームを並行して進めています。
おかげでゲームが全く終わらない。とりあえず2年前から始めていたファイアーエムブレム風花雪月はようやく終わりました。
とりあえず今やっているゲームについては、変更ログが残るのでGitHubに、感想についてはNotionにまとめております。
今まで書いた記事もたくさんあるし、書いてないものもいっぱいあるので、まだまだNotionのまとめは未完成ですが。
プレイの時間制限?何それおいしくないの?
だもんでよく言われる子どもの時の遊ぶ時間制限などもまあ全くありませんでした。むしろゲームをやってないと、母に「なんでやらないの?」と言われるぐらい。
以前は母に、協力プレイしたいからと言われて買ったゲームもあったな。今はそういうことはさすがにないですが。
久しぶりにあつまれどうぶつの森で母と同じゲームを同時期にやることができ、個人的には結構嬉しかったりします。
ここまで放任だからこそ、逆に考えたゲームとの付き合い方
それはともかくとして、ここまで放任主義で来られると、自分としても気を使っちゃうんですよね。
その結果、ゲームとそれ以外をある程度バランスよくできるようになったというか。正直今は時々怪しいときはありますが、少なくとも学生時代は。
なので、自分とゲームのいい距離感を築くきっかけになったのは、かなり母の存在が大きいと思っています。
この辺については以前SBCast.で、ゲームさんぽのなむさんにお話を伺った時にも話していましたね。
不思議のダンジョンで人生を学び、 ゲームで世の中のありようを学ぶ
さて本題。
わたしは不思議のダンジョンシリーズが好きです。
それは、一つのミスがまあ冒険の失敗につながるから。どんなにヒントを入手しても答えにならないから。
この辺については以前、おととしのアドベントカレンダーに書いていましたね。
残念ながらここ最近はゲームのタイプが今のプレイスタイルと合わずあんまり出来ていませんが*1、それでもたまにダンジョンに潜って冒険をしております。
風来のシレンシリーズのようなある種ストイックな不思議のダンジョンも好きですが、ポケモン不思議のダンジョンやチョコボの不思議のダンジョンのような派生作品も好きですね。
それぞれに気をつけなければいけないところ、考えなければいけないところがかなり変わってきます。
例えば風来のシレンシリーズであれば、常に不測の事態を考えること、最悪の事態を考えて行動すること。
ポケモン不思議のダンジョンであれば、仲間を守り、仲間と共にどう進んでいけば危険を最低限に抑えられるか。
チョコボの不思議なダンジョンであれば、手持ちのスキルを使っていかに冒険を有利に進めていくか。
派生作品は基本的に難易度は低いと言われますが、冒険をより有利に安全に進めていこうとするとそこはそれで結構難しかったり。
どこの攻略サイトを読んでも、それはヒントであって答えではない。
それが不思議のダンジョンの面白さであり、魅力であると思っています。
不思議のダンジョンは人生である
そこでタイトルにつながるわけで、不思議のダンジョンは人生と同じような構造になっている。
階層=年齢で、序盤は事故死が多く、中盤になって若干落ち着いてくるものの、 30階あたりになるとかなり進むのが難しくなっていく。日頃の経験と準備が大事になってくる。
どんな攻撃であっても一切油断はできない。
攻撃をかすり傷で済ますことではなく、とにかく受けないことを考える。
その考え方は、実際の人生でも重要になってくるのではないのかなというふうに思います。
先輩たちの助言との付き合い方
人生の先輩たちの助言をどう受け止めていくか?その点でも不思議のダンジョンが参考になるところは多いのかなと思っています。
あの人の人生と自分の人生は、似ているところがあるかも知れないけどもやっぱり違う。
これがわかっていれば、ほかの人のアドバイスのどこを取り入れて、どこを取り入れないようにすればいいのかというのがわかりやすくなっていくのではないか。
あらためて思う、不思議のダンジョンの人生観
そう考えると、不思議のダンジョンってすごく人生だなというふうに思うんです。
ローグライクのゲームは他にも非常にたくさん増えてきました。自分がやったことがあるものだと、以前いっせいトライアルでもやっていたDead Cellsとか。
ただやっぱり、ちょっと違う。
じっくり考えつつ、窮地にどうやって対応するか、トラブルをどうやって防ぐか、被害を最小限に抑えるか。
そういったノウハウの蓄積をしていくという点では、やはり不思議のダンジョンシリーズが一番なのかなというふうに思います。
個人的にはそういうところで、不思議なダンジョンシリーズは今後もやっていきたいなというふうに思います。
ゲームで世の中のありようを学ぶ
そしてもう一つ話したかったことは、 ゲームで世の中のありようを学ぶということ。
本当は別記事に書きたかった気もしますが、そう思っている間にアドベントカレンダーが埋まってしまったので。
2022年の今、ゲームは体験が非常に困難なことを体験できる、貴重なツールであると思います。
ゲームで見る自然の風景
たとえば自然。今だと例えばポケットモンスタースカーレット。
こういうような地形も、草原も、探せば多分世界中のどこかにはあるだろう*2。
でも少なくとも日本で生活をしていてこういう風景を目にできる機会はあまりないのではないでしょうか。
あつまれどうぶつの森なんかでもそうですよね。いろんな昆虫、いろんな魚、多分リアルで目にできる機会はそうそうない。
でもデフォルメされているので、これを見てじゃあ満足っていうことにはならない。
じゃあ現実だとどうなってるんだろう?
そういう興味を持つきっかけにはなるんじゃないかな。
ゲームで体感するさまざまな歴史
たとえば歴史。自分の体験したところだと、戦争とか。
今も世界を見るとあちこちで紛争が起こっていますが、歴史書で読んでも、小説や漫画を読んでも、その戦争体験は、第三者の視点にしかならない。
でも例えばゲームだったら、戦争仕掛ける側にも、仕掛けられる側にも、目の前でそれを見ている側にもなれる。
例えば冒頭に書いたファイアーエムブレム風花雪月では、まさに戦争を仕掛ける側にも仕掛けられる側にもなれます。
そして仕掛ける側でも仕掛けられる側でもないが、巻き込まれる側になることもできる。
そしてもう一つ、戦場のヴァルキュリアは、仮想のヨーロッパを舞台にした戦争の物語。
魔法やドラゴンなどといったファンタジー上の存在が無い分、比較的リアルに戦争を仕掛けられる側の様子を見ることができる*3。
戦争で何が失われるのか、戦時下の一般人はどんな気持ちなのか、主人公の目線で見ることができる。
しかもゲームという比較的長い時間を要する媒体で、じっくり感情移入した上で。
それは他の書籍などの媒体だけでは得られない経験なのではないかなと思います。
先日は、ゲームゲノムにて、This War of Mineというゲームも特集されていましたね。
ただ個人的にはここまでしなくても戦争というもののありようはわかるかな というふうには思います。
そして、ファイアーエムブレム風花雪月でも、戦場のヴァルキュリアでも、人種問題が扱われているところも興味深いところです*4。
日本という、人種問題にそこまで真剣にならなくても済む国に住む人間として、これらの問題がより身近な問題として見られること、それは、人種問題というものを考えるのにあたって非常に良いヒントなのではないかなというふうに思います。
正直個人的には、戦争体験の語り手がいなくなるという問題に直面して、一番いい方法はゲームを作ることなんじゃないかなというふうに思ったりもしますね。
あまり道徳の押し付け感のあるようなゲームを作るとプレイヤーにそっぽを向かれてしまいそうですが。
未知の体験をゲームでする
そのほかにもゲームでしかなかなか得られない体験・得がたい経験というのは結構たくさんあると思う。
知らない人と協力して課題を解決するということ、人種問題とか宗教問題、異性になってみる、事件の犯人になってみる、ものを壊してみる。
現実だとできないことだったり、やるためにはものすごい大変な手間がかかってしまったりといったことが、ゲームだと比較的簡単にできる。
もちろん経験ありきでゲームをしようとするというのは、時に疲れてしまうし、せっかくの学びの機会をふいにしてしまうことにもなりかねない。
ただ、ゲームというものをとおして未知の体験をすることができる。
その可能性は、より多くの人に知ってもらいたいなと思うのです。
ゲームを通して得られる体験、ゲームを通じた学びのありかた
ゲームを通して得られる経験はたくさんある。
もちろんそれを現実世界にフィードバックするには、それなりに前提となる知識があったり、他者との話し合いが必要になったりする。
個人的にはたまに「伴走者が必要」と言ったりしますが、ゲームについて、近しい誰かと話し合ったり、考え方について学んだりする必要があると思います。
自分ひとりがゲームをすればいいってものではない
だからこそ自分ひとりがゲームをすればいいってものではない。
周りの人とゲームをしたり、周りの人とゲームについて話し合ったりして、ようやくゲームで得た体験を現実世界にフィードバックできるようになる。そんなものなのではないのかなと最近思います。
だから、ゲームについて知るのは、何もゲームをする人だけではない。ゲームをする本人や、その身の周りの人、その人とかかわる地域の多くの人。
もっともっと多くの人がゲームについて考え話す必要があると思います。
ゲームなんて所詮は遊び、でもされど遊びなんです。
遊びから学べることはたくさんあるし、遊びを学びに変えられるかどうかは、本人だけでなく周りの人たちの言葉や考え方にもかかっていると思います。
特にここ最近のゲームは非常に自由度も高く、プレイするのに事前知識が必要だったり、環境を整えなければいけないものもあります*5。
だからこそ、プレイする本人だけでなく、多くの人がゲームというものについて考える必要があるんじゃないかなとわたしは思います。
*1:1, 2時間で終わる冒険はありませんし、中断しながら続けるとすると、1回の冒険が平気でひと月とかかかってしまいますからね
*2:パルデア北東部にある険しい岩山など「こんな急な断崖絶壁存在するの?」と思ったら、存在するらしい。先日VRしていたら見かけてビックリしました
*3:まあヴァルキュリアの能力は実質魔法みたいなもんかもしれませんが
*4:ファイアーエムブレム風花雪月ではダスカー人が、戦場のヴァルキュリアではダルクス人が、それぞれ差別される人種として描かれているし、二作品ともその人たちが比較的物語に深く関わってくる
*5: あつまれどうぶつの森などのスローライフをゲームで楽しむにはそれなりの事前知識や感覚が必要になりますし、フィットボクシングやリングフィットアドベンチャーはそれなりの部屋サイズが必要になります