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12月15日のアドベントカレンダーでは、ゲームを通して学んだこととして、「好きなだけ恨めの心理」という話をしてみたいと思います。
今回取り上げるのは、「またかよ」という話ではありますが、ファイアーエムブレム風花雪月と、あとはGroundedというゲーム、2つのゲームについての話です。
「恨むなよ」と「好きなだけ恨め」
ファイアーエムブレム風花雪月は、今までお話をした通り、最初の物語、1年目の物語と、5年後、戦争に突入した後の物語の2つに分かれます。
で、1年目の時と5年目の時って、戦闘に勝利した時とかで言う言葉がみんな変わるんです。
1年目の時って、やっぱり戦争はやってなかったので(学校の授業だったので)、そこまで真剣な戦いではなかったんですね。
実際は模擬戦闘とかではなく普通に命のやり取りをしているっていうことはなくはないんですが、課題戦闘で授業の一環みたいな形でとられてましたから、やっぱり5年目――常に命のやり取りをしているシーンというものとは全く切迫感が違ったんですね。
そんな中で、敵にとどめを刺した後、「恨むなよ」って言って終わる人と、「好きなだけ恨め」って言って終わる人がいるんです。
「恨むなよ」っていう言葉を言うのは、ガルグ・マク修道院の警備兵みたいなことをやっていたアロイスという人。 基本的にダジャレが好きで明るく軽い感じのタイプの人です*1。
そして「好きなだけ恨め」って言う人は、そういう修道院とは全く関係ない場所で流しの傭兵をやっていたシャミアという人です。
このゲームをやっていた当時は、この違いが何であるのかっていうのはよく分からなかったんです。
もちろんこのシャミアという人はすごくサバサバした性格なので、そこから生まれる言葉なのかなぁというぐらいにしか思っていなかったんです*2。
食べなければ生き残れないGrounded
そんなことで、一旦風花雪月は終わって、Groundedというゲームをやりました。
このゲームは身長1センチぐらいに縮んでしまった子どもたちが、この世界で生き残って元に戻るために庭の中を大冒険するというゲームです。
基本的に敵は昆虫です。 カメムシとかアリとかクモとか、昆虫が苦手な人には絶対プレイできないなっていうゲームだったりするんです。
いちおう「クモ恐怖症フィルター」という機能はあって、それを使うことによってクモだけはデフォルメされるんですが、クモだけデフォルメしてもね*3っていう感じだったりします。
そんな中でも、やっぱり人間食べていかなくちゃいけないわけで、ゲームの中でも草食動物、ゾウムシとかアブラムシとかを食べていくっていうことになるわけです。
肉食の虫なんか基本強すぎるので、特に最初のゲーム内で数ヶ月ぐらいは多分ゾウムシやアブラムシが主食になるだろうなと思います。
・・・と言いますか、正直ゲーム内で半年強が経った自分も今でも主食がゾウムシやアブラムシです*4。
まあさすがにゲーム中とはいえ全くの無抵抗で逃げ回るだけの虫を屠殺して食べるっていうのはさすがに気が引けるんですよね。
でもやっぱり生き残るためには倒さなければいけない。
最低1日2食は食べないと飢えてしまうわけで、今自分の時点で360回以上、400回近くはそういうことをしているわけです。
そんなことをやっている間に思ったんです。「今これ、自分『恨むなよ』なんて言えないわ」と。
「好きなだけ恨め」という言葉が出てくる経緯
そんなこんなで冒頭のシャミアさんの発言に戻りますが、「好きなだけ恨め」っていうのは、やっぱりたくさんの命のやり取りをしてきた人間だからこその言葉なんだなと思ったんです。
自分は恨まれても仕方のないことをいつもやっているんだということを自覚しているからこそのそういう言葉なんだなと感じたんです。
一方、1年目では修道院詰めだった*5、そんなアロイスさんはそんなに修羅場をくぐり抜けてきてはいない。だからそこまで覚悟をしていない。
そういう表現なんだなというのを感じたんです。
たくさんの命のやりとりの疑似体験を通して
Groundedで探検をしていくためにはやっぱり草食の虫だけではなくて、当然ながらクモとかカメムシとかそういう凶暴な虫とも戦わなければならなくなるときは来ます。
そうやって本当に真剣に戦って命のやり取りをして、それはまあ恨むなよなんて言えないわ、恨まれて当然だわと強く思ったんですね。
実際このゲーム、特定の虫の縄張りとかに長い間留まったり、たくさんの虫を倒したりしてると、その種族に目をつけられて拠点を襲撃されるっていう襲撃イベントがあったりするんで、まさに恨まれてるんですけどね。
でも、だからこそ恨まれてるんだなっていうことがすごくよくわかるんです。
たくさんのその種族の虫が拠点に押し寄せてきて、クモとかアリとかそういう虫がどんどん押し寄せてきて・・・。もちろんちゃんと抵抗しますので完璧というほどではないんだけども、やっぱり拠点の一部は壊されたりして。
そうされてすごく感じるんですよね。あー恨まれたんだなと。こっちが恨んでるみたいに向こうも恨んだんだなっていうのをすごく感じるんです。
まあ同胞がやられてるんで恨むのは当然なんですけれども、ただそういうのって特に今の平和な日本の世の中、感じる機会そうそうないと思うんですよ。
自分が恨まれるようなことをしたんだっていう感覚、相手を恨むってこういうことなんだっていう感覚。
なんかこういう感覚を得られるって、本当にゲームならではなんだなっていうふうに思ったんです。
他にもファイアーエムブレムシリーズでは、傭兵とか常日頃から命の危険がある仕事をしている人たちは、基本的に「女神様によろしくな(≒自分もそう遠くないうちにそちらに行く可能性を意識している)」とか、「地獄で待っててよ(≒天国に行けるような暮らしはしていないことを自覚している)」とか、本当に命を意識した言葉を言うことが多くて「あーこれが戦場に身を置くことなんだな」って感じるところがすごくあります。
こういう体験ができるというのはまさにゲームならではなんだなっていうふうに思いました。
命のやり取りをすることってどういうことか?命をいただくってどういうことか?
それをこの2つのゲームを通してすごく感じたところでもあります。
そして多分こういう感情って現在日本ではそうそう得られないことだと思うんです。
みんながみんな農業とか家畜とかと一緒に暮らして、そういう動物の命をいただくという経験を身をもって体感したなんてことをしてるわけじゃないし、切迫した命の危機に常に晒されているなんて人もそうそういないと思います。
だからこそそういうことを何となくでも体感できる。それがゲームのすごさじゃないかなってすごく思います。
というところで今回のゲームを通して学んだことアドベントカレンダー、「好きなだけ恨め」の心理、この内容についてはここにて締めとさせていただければと思います。