高見知英のかいはつにっし(β)

高見知英のアプリケーション開発日誌 のほか、地域活動などの活動報告ブログ。

いいことをする人が生きて行きづらい状態

6月3日(月)は地域のボランティアオリエンテーションに参加しました。ボランティアというのは今ひとつ言葉として好きじゃないですが、まあ、こういうところからでないとなかなか地域には接点が持てないので、仕方がない。

・・・と、なんだか最近地域に対する営業みたいなことばっかりやってるなーと思う今日この頃。
実際、地区センターに乗り込んでチラシを置いてもらったり、知らない地区センターに出向いたり、やってることは随分営業的(営業職に付いたことがないのでよく分かりませんが)。


地域ボランティアの話を聞いていてとても奇妙に感じたのは、その公益性を地区団体が頼りにしている と言う点。実際地域ボランティアの活動場所は立派なNPO法人だったり、地域の公的機関だったりするのですが、こういう機関もボランティアの存在をアテにしていたりする。

もちろん、お金は出ないし、ほとんどの場合は交通費すら自腹。それって企業が「我が社は無賃労働者の力を借りることを前提としている」と言っているのと同じだと思うのですが、どうなのでしょうか?


今回のオリエンテーションで提案されたボランティア事業の多くは平日だったりして、そもそもお金に余裕があるか、誰かが生活をバックアップしてくれる立場の人――専業主婦の人とか、年金で生活している人とか――しか携われないものばかり(そもそもオリエンテーション自体平日なので、本業を持っている人は関われなかったりするのですが)。ただこのままだといつまでも若い世代は入り込めないよなあ。

「公益団体が(無償)ボランティアの存在をアテにしている」という事態も、その「ボランティアに生活に余力のある人しか関われない」という事態も、共にどうにかしていくべきじゃないかなあ などと思ったりしました。

コミュニティ貧乏

昔どこかで聞いた記憶がある「コミュニティ貧乏」という言葉。ボランティアだの、コミュニティだの、いいことをしているのに、お金が手に入らないと、そういう人はどんどん貧乏になる。「本業があるから問題ないもん」と言える人ばかりではない(わたしも結局、コミュニティにのめり込みすぎて職をなくしたようなものですし)。

いいことをしているのだから、そのぶん生活は豊かになっていいと思うし、少なくとも生活に困らないようになって欲しい。そのための仕組み作りをしなければいけない。


まあ、結局今は、コミュニティ貧乏が自身で工夫するしかないんでしょうけどね。
ただ、「これをやれば(よほど別の方法で頑張らないと)貧乏になる」と分かっていてコミュニティに手を出す人は、よほどの物好きだけなんだろうなあ と、思うのです。