高見知英のかいはつにっし(β)

高見知英のアプリケーション開発日誌 のほか、地域活動などの活動報告ブログ。

親と子と教師と

生徒主体、教師は場を提供する、こういう部分が『学び合い』に通ずるのだと思います。

第5回 全力!『学び合いレポート | Eduken -教育研究サークル エデュケン-

ここでも「親」と「子」と「教師」なんだなあ、「外部のコミュニティ」というものの存在はない。
自分の知ってる学校教育 というものはそういうものであったという記憶はあるものの、それでいいのかなあと最近思う。
そういえば、先日もらった本でもそうだった(まあ、まだ冒頭しか読んでないのですが)。「親」と「子」の関係。第三者は出てこないんだなあ。いや、そういう本だから仕方ないのですが。


わたしも詳しくは知らないし何ともいえないですが、昔ってもっとコミュニティがそばにあったのでは?

たとえば(こういうのには多分にフィクションが混ざっていると思うので、あまりひきあいにはしたくはないのですが)、時代劇などであれば、長屋の人や、ご近所さん、今とはちょっと違うかもしれないけど「外部のコミュニティ」というのがたくさん、子どもの成長に影響を与えていたと思います。


今なら、自治体であったり、勉強会をやってるようなコミュニティだってある。
子どもに大人が影響を与えられる場所はあるはず。
現状勉強会はどれも都心なので、あんまり子どもがほいほい入り込めるものでもないかもしれませんが。
なんとか、ここにコミュニティが入ることは出来ないのかな。

しかし、昨日ある本(というか冊子)を読んでいて、僕のその考えは一変しました。
書いてあったのは、小学校教師として初出勤する息子に、父親が言った言葉です。
「子どもたちにとってはお前が初めての『外の世界の大人』だ。常に魅力的でいろよ」

第4回 ファンタスティックプカプカ | Eduken -教育研究サークル エデュケン-

教師は確かに、子どもが物心ついてから初めてふれあう「親以外の大人」だと思う。
けど、学校生活とおしてふれあう大人が教師だけ というのは、ちょっと寂しい。
子どもにとって出会う「大人」が教師だけだと、いつまでも子どもにとっての世界は「学区内」だけになってしまう。なにより、わたしがそうだった。わたしは散歩好きだったから高校から家まで歩いたり(1.5時間以上。途中で挫折してバスに乗った)、専門学校から一駅歩いたりしたけど、その程度。どうしても目的なく市外に出ることはない。

そうしてそのまま大きくなると、子どもとしてもそのあとの世間とのギャップに戸惑ったりして、大変だ。
なによりよくないのは、そのままコミュニティという世界があることも知らず、仕事だけの大人になること。いまの大人には、そういう人が多いような気がする。そういう人がいるのはいいのだけど、そういう人が大半だったりすると、そういう人の考えが世間の標準になっていると、息が詰まる。


学校にも、親にも、教えることができないものを、コミュニティは感じさせることができると思う。親は監督する責任があるし、教師には教え導く責任がある。でも責任がないからこそ教えられることもあると思う、子どもに気付かせてやれることもあると思う。


コミュニティと子どもがこれからどうやってつきあっていけばいいのか、考えていきたいです。