高見知英のかいはつにっし(β)

高見知英のアプリケーション開発日誌 のほか、地域活動などの活動報告ブログ。

限界の定義

 女王の教室。わたしはとびとびでいくつか見ているだけですが…。いつも、時に行き過ぎに見えるけれど、最後には納得しています。もちろんテレビの中だからこそあり得ることではありますが、これくらい言う人がいると、それを目の当たりにした人は変わるでしょうね。最近忘れていた「授業に真剣な先生」像を思い出します。
 さて、今回。再放送あると思うのであまりネタバレは出来ませんが、今回は教育委員会の人が出てきました。授業を参観したあと、校長にそのときの感想を言うのですが…。
そのときの台詞に軽いショックを受けました。「生徒たちに不必要に恐怖を与えている」というのがその人の感想。
先生――阿久津先生は、一見刺激的ではありますが、間違ったことは言っていません。今まで短絡的にみれば間違っていることもたくさん言っていたでしょう。ですが、今回に限っては、いつもではあり得ないくらいに穏やかなことを言っていました。しかしそれでも「必要以上」なんです。
わたしはこの言葉で、さいきんのじぶんが"ぬるま湯"につかっていたんだ と言うことを思い知らされました。
詳しいことはもう少し経って、整理がついてから書くことにしようと思いますが…。学校は不必要に限界を定義してはいないでしょうか?「この学校はここまででよい」「これ以上はあとで学べばいい」などと。
実際その先に進んだとして、不足なのは目に見えています。大体「ここまででよい」ということ自体あり得ないはずです。

 限界を超える、その気のある学生のサポート それが学校の基礎。本当はそれに加えて、克己の精神を養ってあげたり、新たな成長の可能性を与えてやったりもする必要もあります。それが学校なんじゃないでしょうかね。
わたしは、ゆとり教育だの何だのと言う前にもう浪人生活に突入していましたから、わかりません。でも、わたしはゆとり教育なんて関係ない時代を生きましたが、何の不足もなかったです。そのときには幸せなんて言う自覚もありませんでしたが、本気で先生をやってる先生たちに出会えて幸せだったと思います。
わたしはゆとり教育の渦中にいる人に直接会ったことはないので分かりませんが…。もしかしたら、このお話はそれに業を煮やした結果なのかなどと思うと、言葉もありません。


 所詮は一塊の学生の戯れ言ではあります。でも、人に教えることが好きで、今学校の公的(?)活動の一端を担っている自分。だからこそ、こういうことをまじめに考えてみたくなります。なにか問題があるのではないか?その血路を見いだすことが、あるいは――。