高見知英のかいはつにっし(β)

高見知英のアプリケーション開発日誌 のほか、地域活動などの活動報告ブログ。

磯子区の地域ボランティア完了報告会に参加してきました

今日は磯子区で先月から行われていた地域ボランティアの完了報告会に参加してきました。

まあ、完了報告会に参加したということは、当然ボランティア活動にも関わってきたのですが。ごたごたしていてブログには書いていなかったですが、6月3日(月)にオリエンテーションを行い、7月5日(金)には杉田にある夢・コミュニティ・ネットワーク 夢ひろばの活動お手伝いに行っています。来場するお子さん(0,1歳児)の遊び相手というものだったのですが、結構楽しく遊んでいました。

そもそもなぜそんなイベントに出席したか

個人的には「ボランティア」という言葉はあんまり好きじゃないのですが、とりあえずこういうことでもしないと地域の団体と接点を得ることは難しい ということで、地域団体と接点を作るためにも参加。

実際、自分から出向けるのは区民センターや地区センターくらいなもので、今回出向いた子育て支援施設のようなところには全く接点が持てない(まあ、自分に子どもがいれば、少しは違ったのかもしれませんが)。だからこそ、こういう機会に食いつくしかないんですよね。

接点を作るという意味では成功したし、自分としても弘明寺関連で子育ての話が出ても入っていけるようにはしておきたかったので、当初目的としていたことは達成できた気がします(まあ、本当ならもう少し年上の子どもと話せたら、今後のほかの活動にも活かせたのですが、まあ、それはまた次の機会にでも)。

地域ボランティアの内容

さてさて。

今回の完了報告会では、オリエンテーションに参加し、実際にボランティアをした人の結果報告。

お手伝いの内容はもちろん場所によって異なりますが、なんというか、最近のボランティアは随分重労働なんだな。
時間は短いものの、やってることはほとんど他の(有給)職員と同じ。参加者は年金受給者や専業主婦の人が多かったと思いますが、それでもそういう人にこれだけの活動を無償でしてもらう というのは、果たして良いことなのかな と、ちょっと思う(自分も活動自体は楽しかったですが、これを例えばもっとたくさん、隔週一回とかのタイミングでやるとなると、時間的にも結構な負担になりそうだなと思いました。年金ってのはもしかしてこういう活動の給料なんじゃないか とも思うくらい)。

ボランティア参加する人が重視「しない」もの

完了報告会では、ボランティアに参加するときに重視するものは?というグループディスカッションも行いました。
健康や目的、(精神的、金銭的な)報酬など、いくつかの項目に順番を決めて「自分は何を重視してボランティアに臨むか」というものを各自話し合うというもの。

健康や目的などの要素についてはまあ、みなさんそれぞれの並べ方をしていて「まあ、そうなるよなあ」と思うところが多かったものの、大体みなさん最も重視しないものに「(精神的、金銭的な)報酬」を挙げていた。
「むしろ、ボランティアで報酬を期待してはいけないと思っている」と言う人も多かったなあ。


なんというか、みんな社会に飼い慣らされちゃってるなあ という感じ。

まあ、参加してる人は誰も彼も「自分で稼がなくても生活できる」人なんでしょうから、そういう発想になったのでしょうけど。正直いいことが出来て、自分も満足していれば、お金なんか要らない で何でもかんでも済まそうとするのはどうなのかな と。


しかし、「精神的な報酬も得てはいけない」って、本気なのだろうか。ボランティアだろうがなんだろうが、自分のレベルアップには活かせるし、活かすべきだと思うのですが。

地域の担い手

そんなボランティアを行う人も、徐々に減っていっているらしい。区民センターの人は「地域の担い手」と言っていた。

まあ、そりゃそうだろうなあ。これだけの重労働を無給でやる余裕がある人は、そんなにいない。

そこまでして見返りがあるかどうかすら分からない地域に従属するより、とっとと地域を見捨てて企業戦士やってたほうが精神的にも経済的にもよほど豊かな生活を送れるんじゃないかな とまで思います。

とはいえ、なくてはならないボランティア

とはいえじゃあ、ボランティアというものはなくなってもいいのか というと、そうでもない。

地域団体の多くは、何だかんだでボランティアの参加者をアテにして動いている。地域団体の人曰く、有給職員とボランティアで回っている状態とのこと。

結局、それって普通の企業風に言うと「我が社は有償職員と無賃労働者で成り立っている」と言っているようなモノなんですが、地域に根ざした活動だから許されるというつもりなのだろうか。

地域職員の気持ち

ところで、もう一つ気になるのは、こういうボランティアを仕掛ける地域職員や社協(社会福祉協議会)さんの気持ち。

ボランティアって、言ってしまえば無償労働なのですが、それをなんの躊躇無く勧められる という気持ちが、分からない。
わたしだって、日本Androidの会横須賀支部のスピーチに登壇をお願いするときは、申し訳ない気持ちでいっぱいなのに(だからこそ横須賀支部では、あまりしつこくない宣伝であればいくらでもOK ということにしているし、その後はアンケートの送付・動画の公開などでスピーカーさんの振り返り, レベルアップに役立つ情報をなるべく提供するように努めている)。
それ以上の時間と準備が必要なことを、なぜ当たり前のように勧められるのか。そして「ボランティアには(精神的・金銭的)報酬はないものだよね」となんの疑問も持たず言えるのか、分からない。

無償ボランティアは無くなるべき とはいえないが

「ボランティアは全て無償では無くなるべき」とは、言えない。

自分たちITコミュニティも無償ベースで結構いろんなことをやってるわけですし、いわゆるフリーソフトやオープンソースソフトだって、無償です。

オープンソースソフトなんかは結果的に商売に結びついているものや、Androidみたいに元々収益をアテにして作られたオープンソースプロダクトもある。けど、本当に無償のものだって結構あるし、わたしもそういう無償のソフトウェアに支えられてきた。

だから、無償ベースで行われる活動というものを、否定することは出来ません。


ただ、少なくともそれは、地域職員のような公的団体の人がアテにして良いものではないと思うし、あって当たり前の感覚で対応するようなものではないんじゃないかな と思います。

そして、職員さん自身も、無償活動の助けでなんとか回っている状況を「正常」だと思ってはいけないよなあ と。


いままでは経済もそこそこうまく回っていたし、生活に困っておらず、善意に溢れた人が多かったから無償ボランティアに寄っかかっていてもどうにかなっていたんだろうけど、今は仮に善意に溢れていても、生活に困っている人が多い。そういう人は、わざわざリスクを冒してまでボランティアに関わろうとは、しないよなあ と思う。わたしみたいなよほどの物好きを除いて。


ボランティアというものの概念を考え直さない限り、地域の担い手は増えないんだろうな。