高見知英のかいはつにっし(β)

高見知英のアプリケーション開発日誌 のほか、地域活動などの活動報告ブログ。

才能って?

プログラミングリングに新しい参加者さんが加わりました。
id:Kuroshio
いままで別に書いたりしませんでしたが、いつもちゃんとチェックしていますよ。せっかくリングの管理者なんてやらせてもらってるんですし、もうちょっと何らかのアクションが起こせると良いんですけどね。

さて、昨日の記事を見ていて思ったのですが、

進路のために才能は選択条件の一つになりえるだろうかということに.

基本的に私は天賦の才というものを信じていない.そんなものは、自分が越えられない相手の存在(あるいは自分)を否定するための言い訳だろうと.その考えが「天才」や「怪物」という言葉に象徴されていると、本物を見たことの無い私は考える.

だからおじいさんの言う原石というのは存在しないのだというのが結論である.

結局は努力のみというのが私の持論である.

わたしは、向こうのダイアリーにもコメントしましたが、才能と言うのは「努力しようと思うこと」だと思います。
たとえばここではわたしを例にとるとして――、わたしはプログラミングが好きでやっていますし、そのためにそれ相応の努力もしてきたつもりです。ですから、わたしは「プログラミングについての才能がある」といえる と思います。
もしプログラミングとは全く関係のない、別の学校の学生ならどうでしょうか?プログラミングの環境を渡されてもとくにやってみようとは思わないかもしれないし、一応やってみたとしても、そんなに努力はしないかもしれない。うちの学校の学生だってそうですね、プログラミングの基礎を学んで、その先やってみようと思う人もいるだろうし、それでいいやと思ってる人もいる。
それが才能のあるかないか だと思います。そのレベルが高ければ、努力した上でさらに上を目指すなら、それが「天賦の才」と呼ばれる代物なんでしょうし、人に言わせれば「天才」だったり「怪物」だったりするんでしょう。
「怪物」と言えば、野球のイチロー選手が思い浮かびますが、彼だってそう。野球がやりたくて、努力したくて、努力して…、でもまだ上があるということを自覚し、努力を重ねる。だから人知を越えたアビリティを生まれ持っているように見える。でも、実際はそんなことなく、努力した結果「人知を越えた」と思えるようなアビリティが身についた。そんなこと考えもせずに「天才」だとか「怪物」と言う人はいるかもしれません。でも、努力した結果の称号として、「天才」だとか「怪物」だとかいう言葉がある ととらえることも出来ると思います。ま、「怪物」はあんまり聞こえ良くないですけどね(^^ゞ


ここでいう原石というのもその通り。id:yurliさんなどはまだ努力の段階には入っていませんが、プログラミングをやろうという気持ちがありますから、(それが本当に才能といえるほど努力できるかどうかは別としても)プログラミングの才能の原石を持ってるのでしょう。H.N.WPKIDSさんなども同じ。自主的にPerlをやりたいと言ってきたんですから、Perlの才能の原石を持ってると言うことになる。

才能もなにも、それはそもそも心理的なものであり、当たり前ながらその技術が生まれ備わっているわけはない、ただ、努力する気になれるかどうかというだけのもの。努力する気があるのならそれは才能になる と思います。それを「努力のみ」というのも、「才能がある」というのも自由だと思いますがね。